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第50回九州公演 記者会見を行いました

2025.01.16

2024年12月11日(水)アクロス福岡にて「第50回九州公演 記者会見」を行いました。

登壇者:
カーチュン・ウォン(日本フィル首席指揮者) ※通訳:小野彩子
平井俊邦(公益財団法人日本フィルハーモニー交響楽団理事長)
河野英雄(長崎日本フィルの会会長)

平井理事長:

本日は50周年を迎える日本フィル九州公演の記者会見にお忙しい中おいでいただきましたこと、楽団を代表し、心より御礼申し上げます。50周年。様々な歴史が刻まれ、2025年2月8日長崎からスタートします。まずこの歴史を支え続けていただいた九州のボランティア・実行委員の皆様、そして各地域でこの活動を支えていただいた多くの方々、ホールにお礼、感謝を申し上げなくてはなりません。困窮を極めていた1975年、日本フィルを九州に呼んで演奏させてあげようと、地元の方々が立ち上っていただいたこと、九州各地で音楽を地域のために広げようと懸命に動いていただき、個別訪問までしチケット販売にご努力いただいて来たこと、50年の歴史は九州各地での実行委員の方々の熱い心、想い、涙と汗の積み重ね、それが日本フィルの楽団員の心を動かし出来あがったものと云って良いでしょう。日本フィルは本当に幸せものです。世界に類を見ない音楽活動をこんなに長く続けてこれたのですから、改めて感謝申し上げます。

この50周年に相似しい指揮者、ソリストをお呼びすることができ、これをご報告、ご紹介する喜びをかみしめております。まず第一に、世界で活躍するマエストロ、首席指揮者であるカーチェン・ウォン氏を50周年でお迎え出来ること、本当に嬉しい限りです。グスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝、世界に羽ばたいたマエストロが日本フィルでの首席指揮者就任披露の演奏会で指揮したマーラー交響曲第3番は、日本のクラシック音楽業界に大きな足跡を残すデビューとなりました。マーラーの音楽について「常に生きる事に関して極端を突き詰める、重いと書いてある時には本当に重いものを要求する、情熱的といえば究極の情熱を求める」それを日本フィルとどんどん作りあげていきたい」と述べています。ここにカーチュンさんのつくりあげようとしてる姿の真骨頂が表われているように思います。

彼は伊福部昭を追いかけています。日本の作曲家としての素晴らしさを勉強し、世界に出したいと言って行動しています。東京音大に出むき、伊福部の文献をあさり、また私も帯同したのですが、伊福部に音楽的影響を与えたといわれている北海道のアイヌを訪ね、白老アイヌの方々と懇談、食事(アイヌの方々の手作り)、歌、舞などを楽しみ阿寒アイヌを訪ね(伊福部の故郷は釧路)、ヒメマスに感謝する「ヒメマス祭」に参加いたしました。その研究心、また物事をつきつめていく真摯な姿勢にすっかり魅了されてしまいました。世界に羽ばたく人間カーチュンの大きな世界を感じさせられました。

今回の演目はマーラーではありませんが、チャイコフスキー:交響曲第5番、ムソルグスキー:展覧会の絵、エルガー:威風堂々できっと色彩豊かな大きな世界を見せてくれるのではないでしょうか。

ソリストは仲道郁代さんと宮田大さんです。日本を代表し世界でも活躍されるお二人に期待が高まるばかりです。仲道さんは1990、91年、日本フィルの海外ツアーでご一緒する等、ただならぬ仲だと言えるかもしれません。今回はショパンの協奏曲第1番。「音楽を聴いて心が動く、心が震える、次に体も動こうという気持ちになる。心が動くことが人の力にもなる。これらが私たちにもたらしてくれるものを信じたい。何かが変容をもたらしてくれたら嬉しい」と語っておられます。演奏の素晴らしさはご存知の通り。心の内面に迫る音楽、大変楽しみです。

宮田大さんは九州ツアー2度目。前回はドヴォルジャークのチェロ協奏曲。その素晴らしさは未だに耳に残っていますが、今回はエルガー。BBCスコティッシュ交響楽団との共演「エルガー:チェロ協奏曲」の欧米盤がクラシック界の権威ある 「OPUS.KLASSIK賞」を受賞、世界に名をとどろかせた得意曲。心をわしづかみにされること、疑いありません。「喋っている時よりもチェロを奏でている時のほうが、言いたい言葉がもっと言えている。どういう風に悲しいのか、どういう風に楽しいのか、自分の中にある感情が楽器を通して一番出ると思います」と語っています。期待がどんどん膨らみます。

九州公演は日本フィルの音楽活動の原点になっています。「温かさ」「人に寄り添う」が楽団のカラーと捉え、九州での経験は東日本大震災「被災地に音様を」の活動を生み出し、後藤新平賞を受賞し、現在357回を記録しています。この経験が九州50周年の次の地域活動に大きな示唆を与えてくれるのではないかと思ってます。九州実行委員の方々とじっくり話し合っていきたいと思っています。最後になりますが、地域の人々との強い心の交流、音楽を通した「心の交流」を今まで以上に体験しようではありませんか。

カーチュン・ウォン:

まず最初に、私はJPOの一員であることを非常に光栄に思っています。2021年に初めて共演し、昨年9月からは首席指揮者を務めていますが、これまでたくさんの演奏会を重ねてきて、すでに3年以上の時間を過ごしているかのように感じています。

50年というのは半世紀です。私が今このJPOという組織の一員であること、そのJPOが50年間、途切れることなく続けてきた九州公演に関わることができるのは、本当に特別なことです。世界中を見渡しても、50年にわたって途切れることなくツアーを続けてきたケースがどれほどあるでしょう。おそらくほとんどないのではないでしょうか。そして私たちには、50年間この歴史を共に歩んできた河野さんのような実行委員の方々がいます。この生きた歴史の一部であることは本当に感慨深いことです。

日本文化全体というものを、私はここ数年で学ぶ機会を得ました。そして、JPOでの時間は、ただ音楽を作り上げるだけでなく、日本における音楽や芸術の文化そのものを学び、浸り、一部となる体験でもありました。先ほど平井理事長もおっしゃいましたが、7月に北海道の釧路や阿寒湖を訪れ、アイヌの人々について、音楽と深く結びついた彼らの文化をより深く理解するための旅をしました。また、大変光栄なことに、後藤さん(日本フィル常務理事)のご案内で東京音楽大学を訪れ、大学の図書館で貴重な楽譜を見る機会をいただきました。このような経験を通して、JPOは日本国内における西洋クラシック音楽の伝統を守る一種の守護者であると言えるのではないかと思っています。     

では、グスタフ・マーラーと伊福部昭、この二人に共通点はあるのでしょうか? JPOは東洋と西洋の交差点のような存在だと思います。そして次に、北海道、東京、そして九州、この三者に共通点があるのかということを考えてみると、私は、それは文化や伝統への敬意、そして愛にあるのではないかと思います。そして、この考えを九州公演に結びつけると、2週間で9つの都市を巡り、コンサートを行うというのは非常に特別なことで、このような活動の一員であることを、私は改めて非常に深く光栄に感じています。そして、九州におけるさまざまな県の「ふるさと」を訪れるのを楽しみにしています。

河野英雄さん(長崎日本フィルの会会長):

先月11月23日の勤労感謝の日に 、長崎県の県議会議場で第1回から活動を続けているということで県民表彰を受けましたので今回お話させていただくことになりました。第1回からかかわってる方も大分の伊東君をはじめ何人かいらっしゃいます。

当時、5月の初めだったと思うのですが、伊東君は第1回のコンサートの後にKBCであった第2回についての会議の時に隣に座っていて、娘が生まれたと。なんと双子だったという話を聞いたことを今もはっきり覚えておりまして、先ほど確認したら間違いなく娘が49歳で来年50になるということです。娘さんもまさに日本フィルの歴史そのものです。一緒に50年間いろんな形でやってまいりました。

日本フィルの九州公演がなぜ始まったか、一口で言うと、民放の九州の若者たちが、フジテレビの援助がなくなって存続の危機になっている日本フィルというオーケストラを応援しようぜと。最初の頃は関西地区等が中心だったのですが、九州でも応援しようぜと。KBCの宣伝会議の会長だった星野誠さんが、大きな声でそう言われて。それなら一回だけはやろうかと。佐賀でやった会議でした。若い人たちで、主に労働組合関係の人でした。私は学生時代に大学のバンドのコンサート1200枚売ったという経験があったものですから、とにかく一定の人数がバカになってやったらコンサートというか、イベントはなんとかなる、ということを強調したんですね。そういうことで私も1回目、バカになって頑張ってやりました。そういうことで九州公演がスタートしました。たまたま第1回のコンサートの初日が長崎市公会堂だった。しかもその時の日本フィル側の運営委員長が長崎出身の松本伸二(ヴィオラ)さんでした。松本さんのためには我々頑張らないかんということで、クラシックにほとんど縁がなかった若者たちが、当時2500円と2000円だったチケットを労働組合とかいろいろな団体に売り、魚屋のおっさんたちなども、そんな若者が頑張ってやっているのだったら、と言って買ってくださった人がたくさんいました。

昭和50年1月27日の第1回九州公演の初日。長崎市公会堂は、1750の席に50の立ち見を入れて1800で超満員でした。その時に公会堂に流れた渡邉曉雄指揮のフィンランディアのあの響きが今でも頭のどこかにありますし、その感動がその後の活動の原点であることは間違いないです。本当に超満員。そして終わった後に多くのお客さんが笑顔で、やったね、また来年もせんばね、と、本当に多くの方がそういうふうに声をかけてくださったのです。我々は一回だけって言ったけど、こんなにお客さんが入るなら来年もしようかと、そういう話になって。最初の数年間は、どちらかというと民放の若者とか労働組合関係の人が多かったのですが、その後、二年三年たつと各地域のクラシックを愛する人、あるいは日本フィルを応援したいっていう皆さんが増えてきて、それが各地に日本フィルの会という、いわば市民組織になっていきました。

長崎市公会堂は昭和57年から十年ぐらい工事で使えませんでした。それで私は日本フィルの団員でも運営委員でもなんでもないのに、日本フィルの公演を長崎県下でするために、県下のホールに行って日程を聞いたり、いくらなら貸してもらえるか?とか、川棚町と佐田町は役場に行って日本フィルをいくらだったら呼んでもらえるか、とか、私が直談判をして日本フィルの出演料も仲介して了解を得て。そうして川棚公演と佐田公演が決まりました。最初の十年間は、日本フィルに相当エネルギーを注ぎました。ちょうどその頃、私は夕方のニュースキャスターもしていたので、幸い、こっちは知らんけど、向こうが私のことを知ってくれたことがあったんですね。そういうことで話が比較的スムーズに進みました。

それからもいろいろありました。九州公演に先駆けた室内楽を今はプレコンサートと言っていますが、そこにもいろいろ思い出があります。病院も行きましたし、学校ももちろんたくさん行きました。盲学校で目の不自由な子供たちの前で演奏すると、どんな楽器で演奏してるんだと必死で見ている。それはもうとても感動です。病院に行ったら入院している患者さんが寝間着のまま来られて、ああ、生きてるうちにこんな演奏が聴けてよかった、と涙を流してお礼を言われたこともあります。

地域の文化に貢献した日本フィルの象徴的な出来事は、昭和56年か57年ぐらいに弦楽四重奏で長崎県の時津町というところの木造の、百人ぐらいは入れる小さな公民館に行った時のことです。日本フィルの2月の公演の前の確か1月の半ばでした。ものすごい寒い日だったのですが、暖房も何もないんです。それで弦楽四重奏4人のそれぞれの後に石油ストーブを置いてコンサートをしました。ホタルの灯のように演奏家の後ろで明かりがともっていました。それが契機となり文化協会の人たちが本格的に動いて、その後数年経って「とぎつカナリーホール」という立派なコンサートホールができたのです。当然のことながら、そのこけら落としには日本フィルに演奏してもらいました。ヴィヴァルディの四季をやりましたから20人ぐらいでしょうか。地域に文化貢献した一つと思ってます。地域の多くの皆さんが日本フィルに青春を捧げたと、思っていると思います。半分人生を捧げたという方もいるかもしれません。

長崎の新聞に載っているこれ、私です。30の時、まだ髪が黒々しております。80歳になった私は髪はありません。50年の歴史がこの新聞の写真でもわかります。

日本フィルの活動に参加して印象に残っているコンサートが三つあります。第1回目はなんといっても印象が大きいです。それから第6回のローマ法王ヨハネ・パウロ二世が来た時に、大島ミチル作曲のオラショを演奏しました。それから第27回、被爆60年の時です。小林研一郎指揮で2月に第九をやりました。 昨日ノーベル平和賞の授賞式がありましたが、被団協の活動を今は若い人が支えていて、そのために使ってもらおうと、コンサートの収益から200万寄付もしました。

50年続いた理由は何でしょうか?それは今日もいらっしゃる各地の実行委員の皆さんの熱い思いです。本当にそういう一人一人の皆さんの思いがあって、この50年続いてきたと思います。そして、それに応えた、日本フィルの音楽の力です。日本フィルの演奏を聴いて、観客の皆さんが演奏会が終わって帰る時に、素晴らしかった、また来年もやってねっていう人がいっぱいいます。その声を聞くと、我々やっぱり来年もやらんばいかんってなってきます。そういうことの積み重ねで一年二年って言って振り返ってみるともう50年になってきたいうことなのです。私ががむしゃらに頑張ってやったのは、最初の十数年です。その後は若い世代が今支えています。プログラムの広告一つとっても、もう20年、30年、同じ広告をずっと出してくれた方もたくさんいます。50年の歴史ある良いコンサートのプログラムに広告を出しているということを、広告主にも逆に喜んでもらってる。そういうことの積み重ねになっています。 私も80になりましたので、いつまで関われるかわかりませんが、元気なうちは活動を続けていきたいと思います。

チェロ:宮田大よりメッセージ
ピアノ:仲道郁代よりメッセージ

質疑応答

日本フィル音楽の印象と今回演奏されるチャイコフスキーの交響曲第5番とムソルグスキーの展覧会の絵の聴きどころを教えてください

カーチュン・ウォン:
現代の国際化が進む世界では、非常に優れたオーケストラがたくさんありますが、それらはみな同じように聴こえることがあります。というのも、世界中の一流の学校を卒業した同じような奏者たちが集まっているからです。彼らは非常に高いレベルで演奏しますが、少ないリハーサル時間で演奏するスタイルが一般的です。その結果、多くの優れたオーケストラが似たような音を持つようになり、ラジオで演奏を聴いたときに「素晴らしい演奏だ!」と思っても、どのオーケストラか特定するのが難しい場合があります。一方、ウィーン・フィルのように独自の音色を持つオーケストラは一聴してわかります。しかし、多くの他の素晴らしいオーケストラは同じように聴こえることが多いのです。

私はシンガポールという若い国から来ました。我が国は2025年に建国60周年になります。それと比較しても、JPOは50年もの歴史を持っています。これがどれほど重要かが分かるでしょう。創設者であるマエストロ渡邉曉雄から始まり、現在に至るまで強い伝統の流れがあります。この伝統を変えるのは非常に難しいですが、それゆえに大きな宝物でもあります。

歴史や文化とのつながりが強い日本という国の中で、JPOは特別な音を生み出し続け、発展させる最高の可能性を秘めています。他のどこにもない音を作り出せるオーケストラです。物事があっという間に流れていく速い世界の中で、穏やかで安定した状態を保ち、歴史を生きているように考えることには大きな価値があります。50年後、JPOが九州ツアーの100周年を迎えたとき、誰かが「50年前にはこんなことがあった」と話すことができるようになるでしょう。JPOはそのようなオーケストラだと思います。

日本フィルは長く首席指揮者を務めたらマエストロ・ラザレフや小林研一郎から、チャイコフスキーやムソルグスキーを演奏する伝統が培われています。この伝統はJPOの骨組みの中に刻まれています。私は日本国外でもチャイコフスキーやムソルグスキーを頻繁に演奏してきました。最近、新しいオーケストラでデビューする際には、必ずこれらの交響曲のうちの1曲を演奏しています。ですので、JPOとこれらの作品を演奏するのを非常に楽しみにしています。昨年8月には川崎でムソルグスキーを、数か月前の5月にはチャイコフスキーの交響曲第5番を演奏しました。この2曲については非常に自信を持って素晴らしい印象的な演奏ができると思います。

今、生の音を届けることの意義について、どのように思っておられるかを理事長とカーチュン・ウォンさんにお伺いしたいです

平井:
この「生の音」というのは本当に大切なんだなと、改めて実感したのは、ひとつはコロナ禍の時の経験です。我々は4か月間、演奏を止めざるを得なくなりました。そして6か月後、初めてお客様を迎えて演奏することができました。その時の演奏はソーシャルディスタンスが求められる中、通常の状態ではありませんでしたが、本当に特別なものとなりました。練習している様子をお客様が見ている姿が今でも記憶に残っています。それまでの間、世の中では「音楽は不要不急だ」「なんで援助する必要があるのか」などという声が上がっていました。我々もその声に対して違和感を感じつつも、悔しい思いを抱えながら、じっと我慢していました。しかし、音楽のない乾いた世界がどれほど味気ないものであったか。それを痛感したのは、音楽が解放された瞬間、そして「生の音」を聴いた時です。この瞬間に象徴されるものが、音楽の持つ力ではないかと強く感じています。

それから、もうひとつ。先ほど申し上げた通り、我々は東日本大震災の被災地に通い続けております。震災が発生した3月11日、その約1か月後の4月6日から活動を始め、これまでに357回もの訪問を続けています。その中で、震災から2か月後に初めて訪れた名取の避難所で、ある方から話を伺いました。その方は避難所にいるお母さんで、実はその場で自分の子供を亡くされたとのことでした。しかし、我々が訪問して演奏した四重奏の音楽を聴いて、「本当によく来てくれた」と感謝の言葉をいただきました。その日は嵐で、雷と雨がひどかったそうです。それでも喜びの声が被災者の皆さんの間から上がりました。そのお母さんは、「2か月間、何があっても涙が出なかった」と話されました。けれども、私たちの演奏を聴いた瞬間、心が初めて開かれて、2か月分の涙が一気に流れ出たそうです。さらに、こうもおっしゃいました。「生きていてよかった」「子供がいて、生きていてよかった」と。そして、「お父さん、私もう少しここで頑張るね」という言葉も聞こえました。

多くの方が2か月間、本当に苦しい思いの中で涙も出ないほど心を閉ざしていた状況でした。それが音楽、生の演奏を聴いた時に心が解き放たれ、感情が溢れ出したのです。この経験は、今でも私の心に深く刻まれています。音楽団体として、こうした力を大切にしなければならないと感じます。音楽にはいろいろな手段がありますが、「生の演奏」の大切さを、改めて確認することができた出来事でした。

カーチュン・ウォン:
演奏者として私がこれに付け加えられるのは、日本語には一期一会という言葉があって、生演奏中に何が起こっても、それ自体が一種の芸術の不完全さとして受け入れられるということです。録音されたパフォーマンスでは、もちろん多くの録音が修正されているため、こうした不完全さは感じられません。

そしてもう一つ、子供たちを見ればわかると思います。私には2歳の子供がいますが、その子が録音を聴くとき、たとえばYouTubeやラジオで聴くときには、興味を示すことはあります。「あ、バイオリンだ」とか、「これが何か」といった感じで。でも、ライブ演奏を目の前で見たときは全く違う反応をします。私の子供だけでなく、他の子供たちも非常に自然発生的に振る舞います。この違いは一目瞭然だと思います。

九州、九州のお客さんの印象を教えてください

カーチュン・ウォン:
実は、日本の他のオーケストラを知る前に、九州交響楽団で一番多く定期演奏会を指揮しました。2018年か2019年から、ほぼ毎年4回、定期演奏会を行ってきました。そのため、福岡には特に温かい思い出があります。福岡は私にとって、たくさんのものがシンガポールを思い出させる場所です。例えば屋台がありますね。

長崎も大好きです。カステラは最高の洋菓子だと思います。クリームもない、シンプルで、とても美味しいお菓子です。でももちろん「博多通りもん」も素晴らしいです。八女茶も本当に美味しいです。みんな静岡茶や宇治抹茶を思い浮かべるかもしれませんが、私は八女茶が最高だと思います。

九州はとても特別な場所で、いつもお祭りが行われているような「まつりの気持ち」を感じる土地です。今回、日本フィルハーモニー交響楽団と一緒にこの冒険を楽しみにしています。

九州はとても広いので、私の経験は福岡中心に限られていますが、一度、「アクロス福岡」が使えなかった時、別のホールで公演を行ったことがあります。福岡の観客は本当に熱心で、音楽にとても詳しいです。私は幸運にも福岡で何人かの友人を作ることができました。その友人たちは時には東京や大阪に私の演奏を聴きに来てくれるほどです。これは、福岡の人々がクラシック音楽に対してどれだけ愛と情熱を持っているかを表していると思います。

福岡は九州の7つの県の中の1つですが、今回はすべてを訪れる予定です。どの県でも、きっととても温かく歓迎していただけると信じています。私たちはすべての観客に最高の演奏を届けたいと思っています。

第50回九州公演 日本フィル in KYUSHU 2025 公演概要はこちら