レポート:広瀬大介
2020年、新型コロナウイルスが猛威を振るう中、戦後初めて、バイロイト音楽祭がその歩みを止めたことは、多くの音楽ファンに、そしてもちろん筆者にも、いま自分たちがおかれている事態の深刻さをあらためて突きつけた。そこにあると信じて疑わなかったものが、ある日突然なくなる可能性がある。そしてそんなとき、真っ先に犠牲になってしまうのが芸術である、というかなしい事実にも向き合わねばならなかった。 ただ聴く側の我々がこれだけかなしいのだから、音楽を演奏する側の悔しさ・やるせなさは察するにあまりある。日本フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者を務め、リヒャルト・ワーグナーの芸術を愛すること人後に落ちぬピエタリ・インキネンは、2020年にそのワーグナーの殿堂たるバイロイト音楽祭で、《ニーベルングの指環》四部作を指揮するはずだった。抗えぬ運命とは言え、さぞ悔しい想いをかみしめたことだろう。それ故に、今年の音楽祭が、観客を911人に抑えるかたちとはいえ、なんとか開催にこぎつけたことは、音楽ファンのみならず、演奏者も快哉を叫んだに違いない。残念ながら、筆者もそんな再開されたバイロイト音楽祭の現地に足を運ぶことができずにいるが、今回は各種報道やラジオ放送から、ピエタリ・インキネンのバイロイト・デビューを追いかけてみたい。
おもえば、インキネンは日本フィルとも、ここぞというときにワーグナー《ニーベルングの指環》を取り上げ、そのワーグナー愛を日本のファンにも強烈に訴えてきた。つい最近のように感じてはいたが、《ワルキューレ》第1幕の鮮烈な演奏は8年前、2013年のこと。サイモン・オニールなどの一流の歌手を招き、決してオペラに慣れているとはいいがたい日本フィルから、地鳴りのようなワーグナーの響きを生みだしてみせたことは、いまなお語り草である。2016年の首席指揮者就任披露演奏会では《ジークフリート》および《神々の黄昏》の抜粋を取り上げ、前者はザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団と録音を残すまでに磨き上げた。2017年にはついに《ラインの黄金》全曲演奏を果たしており、このような活動のひとつひとつが、バイロイトへの切符をたぐり寄せたのだろう。
いまだコロナ禍が完全に終息したわけではないこの世界で、感染を拡げぬようにあらゆる努力を払う音楽業界の皆様にはいくら感謝してもしきれない。もちろん、1年のブランクを経て再開したバイロイト音楽祭も例外ではない。冷房も換気構造もない祝祭劇場での演奏は、現代的な設備を完備するコンサートホールに比べて、さらにシビアであろう。そんな中でも、先述のとおり911人(定員のほぼ1/2)の観客に抑えての上演では、ありとあらゆる対策を施す必要があるだろうと、疫学の素人である自分であってもある程度は想像がつく。祝祭劇場の入場にはワクチン2回接種済証明書か48時間以内のPCR検査陰性証明書(もちろんドイツ語か英語)が求められる。クロークは使えず(ここは日本と同じか)、劇場内のトイレは閉鎖され、わざわざ劇場外に設置されているとのこと。皮肉にも、いつもにも増してストイックに「ワーグナーだけを聴きに行く」雰囲気がいや増しているのだろう。 こんな状況なので、本来ヴァレンティン・シュヴァルツ演出によって四部作すべてが上演される予定は来年に延期され、今年の演奏は《ワルキューレ》一作のみ。それもオーストリア出身のパフォーマンス・アーティスト、ヘルマン・ニッチュによる、ペンキを多用する「アクション・パフォーマンス」に変更されている。このパフォーマンスが舞台後景で演じられ、歌手はあたかも演奏会形式のように、舞台の前景で歌うかたちとなった。ワーグナーの音楽と登場人物の情念がさまざまな色へと「変換」され、舞台上にペンキがぶちまけられる様子は、ある種の共感覚を聴き手にもたらすものであっただろう。
歌手については、ヴォータン役をはじめて歌う予定だったギュンター・グロイスベックが直前で降板を発表し、ベテランのトマシュ・コニエチュニに変更となった。このコニエチュニに、ブリュンヒルデ役のイレーネ・テオリン、ジークムント役のクラウス・フロリアン・フォークトを加えた3人をベテラン勢とすれば、2019年に《タンホイザー》エリーザベト役で大成功を収めたジークリンデ役のリゼ・ダヴィドセン、そしてすでに世界の一流歌劇場で活躍を続ける初登場のフンディング役、ドミトリ・ベロセルスキイが若手勢ということになる。7月29日(木)、初日の上演では、とりわけダヴィドセンの音楽的充実が際立っていた。第3幕、自分を救ってくれたブリュンヒルデに対して、ジークリンデが高々と感謝を歌いあげる場面、全曲で初めて救済のモティーフが鳴り響く箇所で、ダヴィドセンはその鋭くも暖かな美声を朗々と響かせた。またこの場面は、最後の《神々の黄昏》において世界を救済する際に再登場するこのモティーフの重要性を際立たせようとする、指揮者インキネンの強い意志が垣間見えた部分でもあった。 全体をゆったりめのテンポで、ワーグナーのスペシャリストで構成される祝祭管弦楽団を牽引するインキネンの指揮には、さまざまな評が並ぶ。フランクフルト一般新聞のヤン・ブラッハマンの評では、インキネンは《ワルキューレ》の音楽をあらゆる重苦しさから解放し、その指揮が素晴らしいために歌手も自在に歌うことができる、と激賞している。一方、南ドイツ新聞のラインハルト・J・ブレムベックは、室内楽的に推移する音楽が舞台とあまり噛み合わず、ブーイングが起きたと報じている。BR-Klassikのベルンハルト・ノイホフの評でも「バイロイトの聴衆はたしかに辛辣だが、指揮者に対してこれほど多くのブーイングが出るのはむしろ珍しい」とのこと。だが、賛否両論喧しいインキネンとバイロイトの旅路は、まだ始まったばかり。日本の聴き手を包んだ熱狂が、バイロイトの地で沸き起こる日を愉しみに待ちたい。
バイロイト音楽祭 公式ホームページより 《ワルキューレ》配役表https://www.bayreuther-festspiele.de/programm/auffuehrungen/die-walkuere/
BR-Klassik ホームページより 《ワルキューレ》舞台写真https://www.br-klassik.de/themen/bayreuther-festspiele/spielplan/diskurs-bayreuth-ring-2021-die-walkuere-100.html
BR-Klassik ホームページより 《ワルキューレ》演奏音源 (2021年7月29日、バイロイト祝祭劇場)https://www.br-klassik.de/programm/radio/ausstrahlung-2518326.html
(最終閲覧日:2021年8月2日)